最近沖縄の小学校などで、ネパールやベトナムから来た子どもや、日本で生まれたが両親は外国人の家庭が増えています。全国を見ても、外国人や外国につながる子どもも急増しています。この背景は子どもたちや(複)言語教育に対してどのような関係を持つのでしょう。この投稿で2つの側面を考えたいです。
1. 外国につながる子どもの支援について考える基礎
2. 外国とつながりがない子どもとの関わり、複言語教育への貢献
1. まずは外国につながる子どもの場合は、日本生まれの子どももいれば、10歳で来日したばかりの子どももいる、両親がネパール人の子どももいれば、父は外国人、母は日本人やその逆、様々な種類の家庭に住む子どももいます。なお、百歩譲って次の側面を検討したいです。
私の知り合いの間にも「両親はメキシコ人だけど、「君はもう米国人だから、ちゃんと英語を身に着けるためにスペイン語をしゃべらないで、家でも外でも英語を話しなさい」と言われて、その影響でスペイン語がある程度分かるけど30歳の今でも喋らない」と言われました。少し極端に聞こえるかもしれないが、その保護者の言語取得観は「この国のX語を取得するために、私たちの元々の国のY語の使用を抑えるべき」としてまとめられると思います。別の言い方を言うと、バケツ(頭)にオイル(言語Y)と水(言語X)を入れて、これらの液体を混ぜることがないので、対立して、いずれの液体(言語)かバケツ(頭)の外にこぼれてしまう。1970年代頃にカナダのJames Cummins教授はこの質問、「複数の言語で子どもを育てると言語館で混乱しないか」という、バイリンガル教育の奥底を研究しました。このように、言語習得を巡ってCumminsはいくつかの概念と枠組みを提唱し、その中で図1で紹介したいのはCumminsの「Iceberg model of language interdependence」(直訳:言語相互依存の氷山モデル、通名:相互依存モデル)です。
図1 Cumminsによる相互依存モデル(例文などは私が追加した)
L1: 第一言語 L2: 第二言語 CUP: Common Underlying Proficiency (共有基底能力)
Cumminsのこのモデルが示すのは、海にある氷山のように、言語の見えると見えない部分があります。一般的に言語が個別の存在(日本語は日本語、韓国語は韓国語)ではなく、構造的に(おそらく普遍的にも)共通点がある現象なので、水と油よりも水とコカ・コーラ、個別の引き出しで分けているのはなく、同じ箱に入っているのです。別の言い方を使うと、音楽が好きで様々な楽器ができる人は、バイオリンとギターは違う楽器であっても両方は弦楽器であり、笛もトランペットも管楽器であり、そしてすべての楽器に楽譜という共通(?)の基礎的な表記方法がありますよね。スポーツでも、例えば格闘技で空手や柔道があっても、様々な格闘技をやっている人ならそれぞれの種類の間の共通点が体でも身に着けているでしょう。言語もある程度同じだと言ってもよいでしょう。様々な言語をやる人も、新しい言語に直面する時に、「何とか分かる、もしかしたらこの言語の動詞は最後に置くかな?」のような推理もできるかもしれません。この現象は図2で描写されています。
図2 SUPとCUPモデル
上記のCUP(二言語共有説)のモデルが示す通り、言語は繋がっています。昔から私のお母さんがスペイン語で「el saber no ocupa lugar」(直訳: 知識は空間を占めない)という諺が言われた通りだと思います。従って、「琉勉しんしーは沢山の言語ができて、混乱しない?」と聞かれても、私の場合は何の弊害を感じません。なお、この話から、子ども達の第一言語(例えば、ネパール語)で教育を受ける大切さにもつながり、他の投稿で第一言語と教授言語の関係についているでしょう。例えば、元イギリスやフランスの植民地であったアフリカ諸国においては、今でも学習者の第一言語ではなく、英語や仏語だけで教育を行っている状況の問題点、社会への影響についても言及できればと思います。なお、複数の言語の能力差などに関してCumminsが他にも提唱したBICS(対人伝達言語能力)/CALP(認知・学習言語能力)やバイリンガルの種類(均等バイリンガル、偏重バイリンガル、限定的バイリンガル)、別の投稿で触れたいと思います。
2. なお、日本生まれ、日本育ち、家族も皆日本語しかしゃべらない家庭にいる子どもの状況はどうでしょう。上の話は他人事ではありません。教室でも上の外国につながる子どもと接触する機会があると思います。そして学校以外の場所でも、外国語(とりわけ英語)を塾や学童、自宅でもやる子どももいます。学校の場合は、同級生が他の言語(ベトナム語、スペイン語など)が話せることずらを知らない子どもが以外と多いと気がします「えっ、○○くんはポルトガル語が喋れるの?!知らなかった」とか。小学生の場合は、3年生から外国語活動や外国語の授業があり、学習指導要領によれば外国語に触れる、親しむ機会を与える時間であるものの、事実上は英語以外の言語が価値がない存在として扱われ、中学校の英語の前倒しのように見える、英語の時間だけとして使われているのは殆どです。もしこの時間(社会、倫理、総合的な学習の時間でも)で先生は「じゃ、他にも言語喋れるか、知ってる、学んでいる人がいる?誰か少し教えてくれるかな?」と聞いたら、「僕、ネパール語喋れる」、「わたし、KPOPが好きで、お母さんと韓国のドラマを見て、一緒に韓国語を学んでいるなんだ」のような回答があって、基礎のレベルでも色んな言語に触れる、子ども達が自分の第一言語や興味のある言語を通して「今日自分が輝ける」と思える素晴らしい機会になるはずです。これこそは、外語(自分の言語以外の言語)を学ぶ意義、相手の言語に興味と拝領を持つのではないかと思います。
今日の結論: 全ての言語に学ぶ価値があります。
追伸: この土曜日はJICA沖縄で、小学生から高校生向けの多言語スピーチ大会が行い、私は司会の一人をやらせていただきます。皆さんも是非ご来場(駐車場が使えないから、交通機関で来た方が良い)をお待ちしております!

参考文献:
Cummins, J. & Swain, M. (1986). Bilingualism in education. Longman.